「 美しい言葉を使うと良いことが起きるよ 」
いつからか、表面だけの美意識言霊(言葉)が当たり前の世界になってしまった。
愛・感謝・喜び
などポジティブであると認識されている言霊。
すべてが人間個人都合の観点からの言霊選びで
深く紐解けば
「 わたし 」を救ってもらいたい、救われたいがための言霊選びで
自らの奥の感覚からではなく
表面上感情から選んでいる言霊なのであるということに一向に気づけない人間は
そのポジティブであると認識している言霊を選ぶことができたこと自体に満足してしまっていて
自らの内面意識(意識の立ち位置)との相当なズレにもまったく気づくことができない。
そして、使っているひとつひとつの言霊(言葉)に
どれだけの人間が
‘ わたしの奥からの感覚 ‘ という「 真心(まごころ)」をのせて発しているのでしょうか。
「 真心 」というエネルギーは
言霊というエネルギーにのって
どこまでもどこまでもつながってゆきます。
本来、その言霊を嘘偽りのない「 真心 」でひとつひとつ発することができたのなら
目の前に映し出される現象化は、その ‘ 波動・エネルギー ‘ から一気に変わるもの。
でもこの次元における人間が発する言霊は
至るところで「 真心 」を失った感情からの言霊ばかり。
「 食べたい 」という言葉を「 くいてぇ 」と言い
「 やべぇ 」「 うぜぇ 」など
これに限りませんが
自分の内面の感覚を認識して発する言葉ではなく
自分の感情の周波数で外側に映し出された者 , 物 , 事象に対しジャッジをする言葉ばかりが当たり前かのように充満した世界になってしまっているね。
そういった言霊(言葉)のエネルギーは、
自らのカラダ , こころ , 魂のエネルギーをも消費させ
自らが発したエネルギーで出現している周りの者のエネルギーをも枯渇させ
さらにはその者たちが映し出している地球のエネルギーをも濁らせ枯渇させている状態にしてしまうのです。
どうしても「 奥から表層へ 」の原理が心底理解できないために
自らの状態が思わしくないときなどは特にですが、
不意にエネルギーを枯渇させてゆく言霊を発し続けてしまっていたりする。
でもだからと言って、
美しい言葉と認識しているものをあえて意識して使ったとしても
「 下心 」エネルギーがのった言葉には何の意味もないのです。
自らのありのままの意識の立ち位置を偽って
表面上で美しい言霊を使ったとしても
やはりその言霊にのって発せられてゆくエネルギーは
その表面上の美しい言霊エネルギー < 自らの意識の立ち位置のエネルギー
なのだから。
人間観点で発せられているスピリチュアルでは、
表面上、感情で考えるあやかり次元移行にばかりに焦点があたり
自らのエネルギーを変容させる重要性のほんとうの意味がまったく伝わらなくなってしまっている。
「 意識 = エネルギー 」を変えるということは、
表面上だけ見て、感情に飲み込まれたままで実践できるような生半可なものではありません。
‘ わたし ‘ という個の意識が表面の世界に映し出す ‘ 今 ‘ という瞬間瞬間の点の連続を
まごころ込めて体感しようとしていますか?
この先どうなるのかが気になってしまうのは、
「 その先の行方次第で ‘ わたし ‘ の選択認識行動は左右されるのよ 」と断言しているようなもの。
そのように選択行動すると決めてしまっている時点で
‘ わたし ‘ の奥から湧き出る ‘ わたし ‘ だけの感覚を言葉にして認識行動し、それを外側の世界に映し出すんだ!なんてことはできません
と諦めているのと同じなのです。
言霊(言葉)にのっているエネルギーこそが ‘ わたし ‘ の真実。
そのエネルギーは
本人も気づかぬうちに
念波となり鋭い武器に変化してしまうこともあれば
優しく包み込む毛布のようになることもある。
どのような言霊(言葉)を使うかも大事なことではありますが、
どのような意識の立ち位置でその言霊(言葉)を発しているのか
これが最も重要なことなのですね。
何気なく発している言霊のエネルギー
それは「 まごころ 」でしたか?