死なないために、を選択するわたし


闇が光を生みだし、光が闇を生みだす。



これまでの次元において
このような表現は
幾度となく見てきたのではないだろうか。



‘ わたし ‘ にとっての闇はなんなのか?

‘ わたし ‘ にとっての光とはなんなのか?



その正体とは?



これまでの次元で、
‘ わたし ‘ は光側だと人間都合の観点から思い込んでいるスピリチュアリストたち。



そんな人間都合の観点の人間全員が
己の内面意識の使い方こそが闇が映し出される原点なのだ
ということにまったく気がつかない。



気づけるわけもない。



闇だとか光だとか人間都合の曖昧な言葉を使っては
‘ わたし ‘ は特別な存在だと思い込みたい宗教者や支配スピリチュアリストたち。



光のないところに光を?



いやいや、それを言うなら



自分のけつは自分で拭く、である。



人間が自らの内面意識世界を省みず
浅はかに生み出しつづけてきた闇と言われるものを



自分たちは闇を癒す天使であるかのような?
なんとも卑しい意識で癒す真似事をしていたこれまでの次元。



見苦しいにも程があるね。



これから ‘ わたし ‘ に正直な感覚を聞いてみて。



己に ‘ 嫉妬 ‘ という感覚魔はないか。



いいな〜 → ‘ わたし ‘ が欲しい

羨ましいな〜 → ‘ わたし ‘ が体験したい

ああなりたいな〜 → ‘ わたし ‘ が成り代わりたい



この「 欲意識 」が突き抜ける魔の感覚に飲み込まれた ‘ わたし ‘ という思考認識は
‘ わたし ‘ を影と認識し、
その思考の辻褄合わせからの言葉化がはじまり、
その言葉化どおりの行動を起こしてしまう。



そう、これまでの次元に存在する人間意識の出発感覚は



‘ 嫉妬 ‘ になってしまっているのだ。



‘ わたし ‘ の内面意識の声を聴き
‘ わたし ‘ の「 魂からの望み 」 = 生まれる前から設定している ‘ わたし ‘ のシナリオを信じて
思考認識して行動しなかった人間は



皆、 ‘ わたし ‘ の内面意識が映しだされた外側を基準にして
‘ わたし ‘ の価値を比べるという本末転倒なことをして



‘ わたし ‘ というオリジナルではなく
‘ わたし ‘ が映し出した誰かという人間のすり替え品
もしくは大多数のAI生産品
かのような姿なのだ。



‘ わたし ‘ というオリジナルな意識配分の
‘ わたし ‘ というオリジナルな魂からの望み
そこからの
‘ わたし ‘ というオリジナルな映し出し



これをこの映し出す地球という次元で観たかったんでしょ?



‘ わたし ‘ の内面意識に縮こまってしまっている
‘ わたし ‘ ならではのチャンネルになぜピントを合わせない?



どこまで
‘ わたし ‘ が映し出した後の外側の誰かという人間に承認してもらおうとする?



‘ わたし ‘ ではない誰かは
‘ わたし ‘ というオリジナルのミチの保証なんて決してしないよ。



‘ わたし ‘ という魂は
どうしてもやり遂げたいこと・進化を遂げたいことがあって



‘ わたし ‘ という意識配分で
‘ わたし ‘ という姿カタチをつくって映しだし
‘ わたし ‘ の内面意識から辻褄の合うご縁を映しだし
‘ わたし ‘ という人生の映し出しをしているんだ。



‘ わたし ‘ が決めたんだよ。



‘ わたし ‘ 以外の誰かという映しのシナリオに入ってどうするの?



せっかく成し遂げたくて生まれてきたのに台無しだね。



‘ わたし ‘ のシナリオに目を向けだすと
「 欲意識 」からの羨む感覚は出てこなくなるよ。



これまでの次元で信じて癖かのようにしてきた
‘ わたし ‘ の外側に映し出されたもの・こと・人間を
‘ わたし ‘ ではないと判断するということは、もう終わりにしよう。



‘ わたし ‘ の「 魂からの望み 」をとことん映しだしてやる!
と決めよう。



‘ わたし ‘ が信じることを認識し行動して映しだす
現象界地球。



死なないために、
‘ わたし ‘ ではないもの・こと・人間を選択をして

死なないために、
‘ わたし ‘ からではない教えを信じ

死なないために、
‘ わたし ‘ ではない誰かに成りきる



死なないって、
いったいどういうことを言うんだ?



‘ わたし ‘ というものが存在しないのと

‘ わたしではないもの ‘ として存在すること



どちらも死なのではないか。



‘ わたし ‘ を呼び起こせるのは

‘ わたし ‘ の息を吹き返すことができるのは



‘ わたし ‘ だけ。