宇宙の法則、引き寄せの法則、星読み、シンクロニシティ、目に見えないなにかにあやかる…
ありとあらゆる人間都合の法則や知識が
ほんらいのものとは真逆の方向へと広まってしまったね。
良いも悪いもその思考で引き寄せる、というような曖昧な言い回し
与えることで与えられるという、宗教的見解の誤解でしかない因果応報の言い伝え
伝言ゲームかのように
この次元で信じられているスピリチュアルは
まったく違ったものになってしまった。
この地球という次元は、
自分の内面意識(目に見えないもの)を外側に映しだし
観ることができる(事象として現象化させることができる)世界。
人間はあまりにも「 欲意識 」からの執着で輪廻転生をしすぎて
すっかり理解できなくなってしまっているけれど。
‘ わたし ‘ が ‘ わたし ‘ をどう扱っているから
‘ わたし ‘ が意識した人間が ‘ わたし ‘ にどう接してくるのか
‘ わたし ‘ は ほんとうは ‘ なに ‘ に意識を向けて認識しているから
‘ わたし ‘ の目の前に ‘ なに ‘ が現れるのか
‘ わたし ‘ の視点・観点での良い悪いと判断してしまっていることを抜いた状態で
よーく、 ‘ わたし ‘ を観察してみてください。
‘ わたし ‘ の外側に映し出された他人を観察して
その’ わたし ‘ の外側に映った他人と比較するのではなく
‘ わたし ‘ の奥から湧きあがる感覚や、もっている意識を読み解く練習をするのです。
‘ わたし ‘ が意識の奥で、
ほんとうはなにを信じて一瞬一瞬オーダーしているのか
ほんとうはなにを出発点として一瞬一瞬イメージを出してしまっているのか
そんなはずはない…
を抜いて、真摯に観てみるのです。
必ず、’ わたし ‘ がはっきり思考で言葉化して認識できていないことも混ざった状態で
なにもかもが曖昧オーダーの状態になっているはず。
その曖昧なオーダーが
今の ‘ わたし ‘ の状況、状態、現実なのです。
環境も、体型も、顔つきも、
人間関係も、夫婦関係も、男女関係も、生活状況も、健康状態もね。
誰も邪魔してないし
誰も悪じゃないんだよ。
‘ わたし ‘ がオーダーしていることが
‘ わたし ‘ の純粋な魂からのオーダーじゃないものが混ざっていることに気がつきさえすれば
必ず ‘ わたし仕様の楽園 ‘ が目の前に映しだされる。
答えは ‘ わたし ‘ の内面意識にしかないよ。
‘ わたし ‘ は、
鏡なしで、写真や動画なしで
‘ わたし ‘ のすべてを見られる?
‘ わたし ‘ の360°は自分では見られない。
だからこそ ‘ わたし ‘ 以外の他人というものが在る(映る)んだ。
‘ わたし ‘ は、
‘ わたし ‘ の裏側に押しやった ‘ わたし ‘ の意識を
どう観る(映しだす)?
‘ わたし ‘ の360°の意識を自分で観ようとするならば
‘ わたし ‘ が選んでいる側の反対を映しだしてくれる他人という映しも必要なのだ。
この世界は陰と陽、相反するエネルギーが同時に同量存在して
はじめて現象化(物質化)する世界。
‘ わたし ‘ が選んでいる側エネルギーが存在する(映る)ならば
同時に
‘ わたし ‘ が選んでいない側のエネルギーも存在し(映ら)なければ
‘ わたし ‘ は存在できない(映らない)。
だからね
‘ わたし ‘ が選ばなかった側である
‘ わたし ‘ の視点・観点からの悪・陰・劣だって
存在してあたりまえ。
それがなければ
‘ わたし ‘ の選んでいる視点・観点からの
善・陽・優だってなんの意味もなさないから。
‘ わたし ‘ がなにを信じなにを認識して選んでいるのか
わたしの目で見て
わたしの耳で聴いて
わたしの鼻でかいで
わたしの舌で確かめ
わたしの肌で感じたいんだよ。
ただ、それだけだったのに…
なんでこんなにも
ほんらいの ‘ わたし ‘ ではないものを映し出した外側を先に観ては比べて、
また ‘ わたし ‘ の魂からの望みではないオーダーをして映し出して、また比べてって…
そんな茶番劇をするようになってしまったのだろう。
リラックスして
まわりを完全にシャットアウトして
なんの条件も考えずにベイビーのように純粋な魂からのオーダーをイメージしてみてよ。
‘ わたし ‘ のほんとうに映し出したいものを
‘ わたし ‘ のほんとうにオーダーしたいものを
邪魔していたのは
‘ わたし ‘ がこれまでに信じこんで認識したマヤカシの思考だったって気がつくよ。
その ‘ わたし ‘ のマヤカシの思考にいつまでも恨みを抱いて
戦争意識を内面意識世界で繰りひろげているのは
‘ わたし ‘ だったんだって、気がつくよ。
それがほんとうの意味で認識できたとき
‘ わたし ‘ の映し出す世界では
ありとあらゆる戦争が消える。
宇宙大戦、世界大戦、宗教戦争、社会戦争、いじめ、夫婦喧嘩、親子不和
映し出されたすべての戦は
‘ わたし ‘ の内面意識世界に在ったものだったのだと
気がつくんだ。
要らぬロマンス(つらいことから光への順番が善であると信じてしまっていること)のために
こんな壮大な自作自演の茶番劇を繰りひろげていたのか、とも。
そして人間は
どうしても自分が特別でありたいと
どこかで思っている。
でも、それもね、人間都合の視点・観点での「 欲意識 」が映し出されるだけ。
そんな欲出発の特別なんて
もう要らないんだということにも
だんだん気がつくようになるよ。
‘ わたし ‘ が見る世界(現実)にはなにひとつ偶然などない。
‘ わたし ‘ の内面意識を
‘ わたし ‘ が意識する人間やものを通して
目に見えるカタチに映しだして見ているだけ。
これを認識して体験をしてみると
ほんとうの意味でとっても楽になるよ。
無駄な恐れも抱かなくなる。
なにが起きても
それは ‘ わたし ‘ がオーダーしたもの。
それを良い悪いと判断しているのは、
まぎれもなく ‘ わたし ‘ の今の視点・観点という思考なんだ。
人生は、自作自演の壮大なストーリーだね。
‘ わたし ‘ は、どれだけ ‘ わたし ‘ に興味をもてる?
どんな ‘ わたし ‘ でも大丈夫だよ。
だって、最初から’ わたし ‘ しかいない世界なんだから。
オアシスは最初からずっと在るんだよ。
茶番劇とオアシス、わたしが信じているのは?
